女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
25号(1993.04)   pp. 36 -- 38




周知の通り、あのオードリー・ヘプバーンが今年一月に亡くなりました。 老若男女を問わず、世界中の人に愛されたスター。 映画好きの小誌編集部員なら何かしら彼女の映画に感銘を受けたはず。
そこで、各人心に秘めていたオードリーの思い出をコメントしてもらいました。


ファンではなったけどなぜか惹かれた女優

地畑寧子

私にとって、オードリー・ヘプバーンは特に好きな女優さんではなかったので、 さほど彼女の作品を観ていなかったなあと思いつつ改めて数えてみると、 七本もあったことに気づきました。考えてみれば彼女の作品はほとんどが名作の定番になっているし、 監督がみな巨匠ぞろいだったからだと思います。

その中で特に心に残っているのは、『ティファニーで朝食を』。 あまりにファッショナブルな面ばかりを強調されているのでへそ曲がりな私は 変に観ることを拒絶していたのですが、よくよくみると原作がトルーマン・カポーティだし、 相手役がいまはすっかり『特攻野郎Aチーム』 の隊長になってしまったジョージ・ペパードがスリムな頃だったので、観ることにしたのです。 ところが、主題曲のムーン・リバーの歌詞をよくよく聴くにつけ、 こんなせつない物語だったのかと拒絶していた私がバカだったなあと反省した次第です。

彼女にはいつも華麗とか清純の形容詞がついてまわりますが、 『噂の二人』や『暗くなるまで待って』を観たときを思い出すと 演技者としての素質も一級品だったんだなとつくづく感じました。

『ティファニーで朝食を』でも、一歩間違えば、単なるわがまま娘の放蕩生活になりかねないのを 彼女がヒロインを演じたからこそ、ちょっといい加減だけどコケティツシュで 単に男好きのする女性というだけでなく、女性にもヒロインに感情移入できる女性像が作れたんだと思います。

大女優だったけど、演技演技と肩肘をはるわけでもなく、 ユニセフの活動報道があってもこの人だとなぜかいやらしさを感じなかった。 こんな不思議な女優さんもう出ないでしょうね、きっと。


オードリーと私

勝間

私は、年を取ってもかっこよさを失わない女優が好きである。日本人なら山田五十鈴とか。 たとえ皺があっても、若い頃と同様今もキリリとした女優さんは気持ちがいい。 だから『ニキータ』のジャンヌ・モローには惚れ惚れした。そういう私の観点からすれば、 オードリー・ヘプバーンの中年以降は女優としてちょっと気の毒・・みたいな感じがあった。

だがオードリーと、山田五十鈴やジャンヌ・モローは個性が全く違うので、 可憐な妖精であった人に同じキリリを求めるのは不可能だ。ふわっとした個性を持った人が、 たまたま体型が痩せていたので、中年以降皺が余計目立ってしまったにすぎない。 キリリとした人なら皺さえも勲章あるいは武器になるものを。

というわけで、特に彼女のファンというわけでもなかった私は、彼女の出演作を5本しか見ていない。 しかし、その中で彼女の妖精としての全盛期だった二十代の作品は『ローマの休日』だけである。 これは偶然と私のひねくれた性格の両方に責任かある。

というのは、高校性の頃だと思うが、『ローマの休日』と『ティファニーで朝食を』をTVで見て、 一応オードリーに興味を持った。 その後すぐ今はなきテアトル東京へ『マイ・フェア・レディ』を見に行った。 これはオードリーだからということもあるが、 日本の舞台女優の多くがやってみたい役を問われた時、『マイ・フェア・レディ』 のイライザと答えているので、一体どんな役なんだろうと思っていたため。 この時のオードリーは汚ない花売り娘も華麗なドレスのレディも楽しそうに演じていたが、 私には彼女の魅力よりもまず「踊りあかそう」「運がよけりゃ」「君住む街角」 といったナンバーに圧倒された。

この時『麗しのサブリナ』でも見ていれば、 私とオードリーの関係はもっと違ったものになっていただろう。 その後見た彼女の作品は『噂の二人』と『シャレード』。これらはオードリーにではなく、 ストーリーに興味を持って映画館へ出かけたのだった。 前者はシリアスな内容に。後者は当時ヒッチコックに目覚めたばかりで、 同様のサスペンスだということ、それにヒッチの常連のケーリー・グラント(私ファンです) が共演してるため。

家にビデオデッキがまだない頃で、古い名画は見たいものが名画座にかかった時に見に行くしかなかった。 あとはTV放映を待つしかない(しかもTVだとカットされ、吹き替えである)。 そして偶然『噂の二人』と『シャレード』が私のスケジュールの空いている時に たまたまかかったのだった。

以上の偶然の積み重ねで、私か見たオードリーの作品は『ローマの休日』 (25歳)以外はすべて三十代の作品なのだ。 その後も銀座文化劇場などで何度も彼女の特集かかかっていたが、 オードリーというと普段映画を見ない人も知っていて、とにかく混んでいそうなので 天の邪鬼の私は避けてしまったのである。

三十代の彼女の魅力が劣るというわけではない。私は『マイ・フェア・レディ』 の変身前のイライザの気取りのない演技が好きだし、 『噂の二人』の毅然としたラストシーンも好きだ。 でもやはり素直に二十代の妖精の頃の映画を見ようとしなかったことが悔やまれる。

倖い今はビデオで旧作を見直すことができる。せめてあと5本ぐらいは見ておきたいなと思う。


最後までソマリアの子供たちを気遣っていた、優しいヘプバーンさんのご冥福をお祈りします。


オードリー・ヘップバーンを偲んで

佐藤

『ローマの休日』が封切られた一九五四年、私は小学五年生だった。 そして『戦争と平和』が封切られた五六年が中学一年、『昼下りの情事』が、 その次の年に封切られているから中学二年、『緑の館』が五九年で、 『ティファニーで朝食を』が六一年、『噂の二人』が六二年、 後の三本の封切り時は高校時代だった。

テレビが、我が家に入ったのが中学一年のころだったから、そのころ映画は、本当に胸の踊る世界。 夢を買いに映画館へ通ったものだった。 藤田ミラノという挿し絵画家がヘップバーンそっくりの絵を描いていて、好きだった。 白い絹のスカーフを買ってヘップバーンスタイルを真似たこともあったっけ。

私は高校くらいになるとフランス映画のヌーベルパーグものみたいな映画が好きになり、 ハリウッドで作られるケバい豪華大作なんかには関心がなくなったが、ヘップバーンは例外だった。 中身のお話がありきたりのシンデレラストーリーでもなぜかヘップバーンには魅かれてしまう。 彼女の可愛いしぐさを見ていると本当に幸せな気分になってしまったのだから不思議だった。 メル・フォラーと結婚した時は驚いた。あんな変なおじさんのどこがいいのと叫んだほど。 彼が監督した『緑の館』は全然面白くなかった。 変な葉っぱなんかまとったヘップバーンはちっとも魅力ないの。 ヘップバーンに漂っているのは都会的ムードの魅力なんです。 年を経た後、味のある演技を披露してもらえなかったのが残念。 シャリー・マクレーンはちゃんとおばあさんになっているのに彼女は永遠に『ローマ』のまま。 歳をとることを許してもらえなかったんですね。


心に残したいお姫様の姿

外山

『ローマの休日』『昼下がりの情事』『麗しのサブリナ』『戦争と平和』『シャレード』 『ティファニーで朝食を』『マイ・フェア・レデイ』『尼僧物語』『暗くなるまで待って』 とくれば、言わずと知れたオードリー・ヘプバーンの出演作。 結構彼女の作品は観ていたんだと、自分でもびっくりした、思い出せないけど、 きっと他にも小さな作品で観ているのかもしれない。

一番印象深いのが、なんといっても『ローマの休日』。 グレゴリー.ペックの運転するヴェスパの後ろに乗ってたお姫様、 公の式典でドレスの下のハイヒールのシーン、などなど可愛らしくて憧れた。 六人の女の子がローマでレイプされた事件もたぶん旅の気楽さに加えて 「ローマの休日」気分というのがあったのかもしれない。 『麗しのサブリナ』以来サブリナパンツというぴったりしたパンツも流行になって、 短い足に似合うはずもないのに私もはいた。

このように日本では結構人気のある女優だったけど、ハリウッドでは 『マイ・フェア・レディ』以来彼女のキャリアに傷がついてしまったのか、 あまり評価されていなかったようだ。というのも『マイ・フェア・レディ』 で彼女は歌を他の人に歌わせたからだった。 リップシングというわけ。インチキを許せないというか、認めないというのか、 それがハリウッドの良さでもあるのだけれど、それ以来評判がもうひとつとなったらしい。 亡くなる直前はヨーロッパに在住し、ユニセフなどボランティア活動に明け暮れていたという。 映画のようにお姫様の人生ではなかったのかもしれない。

冥福を祈る。

合掌

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