中野理恵 「バリト」のメンバーとは、91年の第二回山形国際ドキュメンタリー映画祭の時に 知り合った。韓国映画を日本に紹介している若い日本人男性が 「韓国の女性たちが、ポルノとか『ばいしゅん』についての映画をつくりたいと いっているから」と言って出会いの機会をつくってくれた。 そのうちのひとりが現在『売買春大陸アジア』(仮題) を撮影中のビョン・ヨンジュさんである。その後の彼女との数回の出会いで、 この新作の製作資金を少しでも集めたいとの希望を受けて、 バリトの作品『花の名前』と『ウリネ アイドゥル』(ビデオ作品) の配給を引き受けることになった。 『花の名前』は劇映画で二部構成になっている。第一部は、 家事・育児・仕事の両立に悩む若い女性が主人公で、第二部は、 女性の事務労働の現場での差別を取り上げている。洋の東西を問わず、 女性の抱える悩みは変わらないことを痛感させられる作品だ。 『ウリネ アイドゥル』は、実際の事件に触発されてつくったというドキュメンタリーで、 ソウルの貧しい地域に於ける託児所問題をテーマにしている。いずれの二本とも、 技術的には未熟であるがとにかく自分たちはこれを表現したい、 これを言いたいという点が非常にはっきりとしているから、 観客を摺り込んでしまう強さがある。聞くと、誰も先輩のいない状況で 自分たちで暗中模索しながら撮影技術を習得し、という具合でつくりあげたそうだ。 これらの作品をみて、いま私が一番考えているのは「女性の創造行為とはなにか」である。 かつてブラジルのラケル・ゲーバーが十一年かけてつくった『オリ』をみた時も 同じことを考えた。 男性ではつくることのできない作品というものが、確実にある。 何がどのように異なるのかを限られた字数では説明しきれないのだが、 テーマにしてもそうだが、カメラの視線から編集まで これは女性がつくったと思う映画がある。バリトの二本もそうだ。 創造行為にとって表現したいことがあるということがいかに重要であるかを、 まざまざとみせられた作品であった。
宮崎暁美 中野さんは私の古くからの友人である。 フランス映画社に勤務の後、独立しパンドラカンパニーを設立。 今迄に『ハーヴェイ・ミルク』『X指定』 『100人の子供たちが列車を待っている』 『八重桜物語』『幻舟』 『百年の夢』『ハーレム135丁目』、 ジェーン・カンピオンの短篇『キツツキ』『ピール』 などを配給している。 最近買春ツアーという言葉をあまり見ないが、表に出てこないところで 続いていることは確かだろう。 日本から韓国へのキーセン観光が問題になったのは随分前だが、 タイやフィリピンなどに買春ツアーに行くのは、今や日本人ばかりでない。 めざましい経済発展を遂げた韓国からも買春ツアーが行くようになった。 そんなことが、アジアに於ける売買春についてのドキュメンタリーをつくろうと思ったきっかけだという。 もうすでに済州島での撮影を終え、日本での撮影を新年早々にも行なう予定だ。 「映画芸術」No.365で〈映画の中の従軍慰安婦〉という特集があり、 日本映画は「従軍慰安婦」をどう描いてきたかというのがテーマだったが、 その冒頭の文で編集・発行人の脚本家荒井晴彦氏が新聞記事を見て 「「じゅうぐんいあんふ?」どういう字を書くの。聞いたことがない。 関心もない(女子事務員(二〇))」に、この野郎、輪姦したろうかと 声に出さずに言ったのだ。 と書いていたが呆れてしまった。 この女性の言葉に対して"輪姦したろうか"という発想、 なんでこんな発想しかできないの?女を性の対象としてしか考えられない、 こういう男の女に対する見方が買春や従軍慰安婦を生み出したのだろう。 そういう意味でどちらも根は一緒だと思う。 そしてそれは当然、映画の中に描かれる女性像にも現われる。 シネマジャーナル前号(23号) 「とーく」『寒椿』の中でシネマジャーナルのメンバーが議論したことや、 出海さんが「東映映画をオバサンの目でじっくり観よう」の中で言っている 〈男ってこういう女を「いい女」と思っているのか〉という内容に通じることだ。 と、話が脱線してしまったが、話を韓国映画に戻そう。 韓国ではどうだか知らないけど、 日本で公開される韓国映画の中で描かれている女性像というのは母とか娼婦という、 いわば男を慰める存在として描かれることがが多かった。 現代に生きる女性像というのはあまり描かれてこなかったと思う。 今回上映されたふたつの作品は、現在に生きる等身大の韓国の女性たちを描いている。 これからも上映されるので、ぜひいろいろな人に見てもらいたい。 バリト作品これからの上映予定 一九九三年
上映時には製作メンバーのピョン・ヨンジュさんが来日し、 会場で話をする予定だそうです。 |