女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
24号   pp. 44 -- 47

映画評



思いがけなく良い映画『双旗鎮刀客』

外山

中国映画で、ものすごくひどい映画を見てしまって以来、 どうも中国映画をはじめアジアの映画に対する偏見から抜けられなくて、 我ながら情けなくなる。

ところが先日、なんの予備知識もなしにただフーと足が向いてしまった池袋の文芸座で 思わずうなってしまうような映画に出くわした。 ただ夜問割引の六百円で二本立てというのにひかれて入ってしまったのだが。

『双旗鎮刀客』と、まさしく私の嫌いな中国映画なのだが、 ちょうど黒沢の『七人の侍』と『孫悟空』とマカロニウェスタンを足して割ったような娯楽映画。 映像的にもなかなか面白いし、せりふも無駄がなく実に良くできている。 何よりも魅力的だったのは砂漠を駆け抜ける乗馬のシーンだ。 やはり騎馬民族の馬の扱いはさすがに美しい。 それに中国のあのどこまでも荒涼とした広さたるや、私の想像を絶する。 あの広さがあるから馬のシーンが映える。

話は荒涼とした砂漠の中の村に貧しい身なりの少年がやってくるところから始まる。 二つの旗がはためいているので「双旗村」というこの村に、時々七人組の賊がやってくる。 それが滅法強い。来る時はいつも飲んだり喰ったりの挙げ句、血を見る騒ぎ。 村人はただただ恐れおののいている。 ところが貧しいだけと思っていたよそ者の少年が実は、有名な剣客の息子だった。 が、彼自身はまだ自分の強さに気づいていない。まだ一度も戦った経験がないからだ。 頼んだ助っ人は剣客とは名ばかりのろくでなしの酔っ払い男。 賊が村にやってきたのに助っ人はいっこうに姿を見せない。 少年は覚悟を決めてたった一人で村を護らなければならなくなった。そして…

と、話せばやはりわかるでしょ。これはまさしく『七人の侍』か『用心棒』の世界ですよ。 しかも黒沢得意の砂煙まである。この映画の監督、 よほど黒沢に惚れて黒沢の研究をしているとみた。 あとから文芸座が配る小さなスケジュール表を見ると、 ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭でグランプリをとっているとあった。 さもありなん。機会があったら是非見てほしいな。なかなかなもんでしたよ。



中国映画祭92『心の香り』を観て

佐藤

小学生の京京は、京劇の役者でもある。 その才能は素晴らしいがどこにでもいるお茶目で腕白な子供でもある。 古典舞踊の練習は、なるべくさぼりたくて仕方がない。 彼の両親が離婚を考えて別居したため、しばらくの間、 母方の祖父のところに預けられることになった。彼の母親は、 その父(少年の祖父)の反対を押して結婚をし、長いこと実家には帰っていなかった。 だから、少年もおじいさんに逢うのは、はじめてだった。 おじいさんは、昔は有名な京劇の俳優だったが、おばあさんがなくなってから引退し、 今は年金生活をしている。おじいさんの家は中国の南の方にあった。

眼鏡をかけたいかにも都会っこのような腕白な京京のキャラクターがとてもいい。 はじめて逢ったおじいさんは、聞きしに勝る頑固者で、小うるさいおじいさんだった。 それぞれの個性がぶつかる情景は、 このふたりの役者のうまい演技に支えられて重厚であり、古い中国の家のたたずまいも、 しっとりとして心地よい気分に観るものを誘ってくれる。 『黄色い大地』や『紅いコーリャン』などに象徴される中国の北の方の風景とは、 うってかわってこの地方は、緑豊かで、大木の下を水牛が歩いているし、 稲の穂は波打ち、川はゆったりと流れていた。

おじいさんには、川向こうに住む蓮おぱさんという友達がいた。 蓮おばさんももと京劇の女優だった。 おばさんの夫は兵隊で台湾に行ったきり四十年も音信不通だった。 この女性のつつましやかな立ち居振る舞いにもほっとする思いがした。 彼女は頑固者のおじいさんには、孫のかわいさを説き、 京京には人生というものの奥深さを語ってくれるのだった。 彼女は熱心な仏教徒だった。そして京京に限りなく優しかった。

蓮おばさんは京京に話かけた。 「人間は生まれてくる時、親を選ぶことができない。これは運命なのよ。 でも、生まれた後の人生は自分で選んで歩かなくてはいけないの」

おじいさんとも、おばさんとも、隣の女の子とも仲良くなれた京京。 蓮おばさんは、四十年も音信不通だった夫が、生きていることを知った。 それは、おじいさんにとっては心穏やかなことではなかった。 が、その夫は台湾で急死してしまう。数々のショックでおばさんは床に伏し、 あっけなく死んでしまう。食物が喉を通らない位、落胆したおじいさんは、 彼女の望んでいた仏教の供養をするため、大切にしていた楽器を売りに町に出掛けていく。

さりげない物語の中で離婚家庭の子供の心持ちへの思いやり、台湾との長い間のへだたり、 そして老人同士の暖かな心のかよいあい、仏教徒への思いなど、 考えさせられる問題が含まれて展開する。久々に映画の醍醐味を味わった。 瑞々しいカメラワークも見応えがある。 監督の孫周は、テレビのディレクター出身とのことだ。



『仕立て屋の恋』

曽我部

二十二歳の娘が、空き地で殺された。 刑事は捜査を進めていくうちに現場近くのアパートに住む仕立て屋のイールを疑う。 本作の主人公、ムッシュー・イールは孤独な独身の中年男性。 物静かで、控えめで、清潔好きな方。 しかし、他人と深い関係を持とうとしないため、近所からは変人扱いされていた。

イールには細やかな楽しみがあった。それは最近越してきた向かいの部屋に住む美しい娘、 アリスを窓ごしに見詰めることだった。 娘は覗き込まれていることも知らず、あけっぴろげに振る舞う。

そして、ある嵐の夜、アリスはイールの存在に気がつく。アリスは、最初は驚いていたが、 やがてイールに挑発的に接近するようになる。

アリスには恋人がいた。女性は、同時に二人の男性を愛することが出来るのか? アリスは何故自分に接近したのか(実はイールはその理由を知っている)?

思い悩みながらもイールは、アリスとのレストランでの昼食の時に愛を告白する。

しかし、それが悲劇の始まりまりだった。


イールにとってアリスはどういう存在だったのだろうか。 凍りつくような寒々とした世界に住み、ストイックに生きてきた彼が 唯一心を熱くすることが出来たのが彼女を見詰めることだったように感じられる。 彼女の性格を知らないわけだから、いくらでも見ている側は、想像力を発揮し、 理想化できる。しかし、アリスと実際に言葉を交すようになると、その楽しみは崩壊する。 知性漂う娘という予想は当たっていたが、彼女の挑発的な目差しと物腰に、 イールは困惑する。今まで自分の頭の中で理想化してきたアリス像は崩れていく。

でも、イールのアリスに対する想いは、冷めるどころか強まるばかりであった。

それが、ラスト、悲劇につながるわけだが、 どうも恋に身を委ね恋に殉ずるという映画のようには感じられなかった。

イールはアリスに最後に罠にはめられる(殺人事件と関係あり)。 その時に、イールは彼女に向かってこういう。

「笑ってくれてもいいが、アリス、私は、君を少しも恨んでないよ。 ただ、死ぬほど切ないだけだ。でも、構わない。君は私に喜びを与えてくれた」

これは、愛の告白ではなく皮肉のように感じた。他人を愛することより、 己れの世界を大切に守ってきた中年男性が、一時の至福を娘に与えられたが、 最終的には、深い絶望感を味わうことになった。 本来なら罠にはめられたことに対して罵声を浴びせてもおかしくないのに、 イールはそれを、しなかった。彼女との幸せな時間を傷つけたくなかったのであろう。

だからこそ、彼は、慈愛を込めて愛する女性に皮肉を言ったのだと思う。

あくまでも、イールは、自分の世界を守ったわけだ。観終わって、 とても奥の深い映画のように感じた。

イールもアリスもお互いの気持ちを気付くことが出来なかった。 イールの恋が実らなかったことは、残念なことだが (それだけイールとアリスに対して好意を持っているということか)、 観ている私の心は、それ程暗くならなかった。 なぜなら、イールとアリスの二人の時間が、寒々としたムードで進行する映画の中で、 一際光り輝いていたからだ。 暗くなりすぎないようにというパトリス・ルコント監督の配慮が伺われる。

イール役のミシェル・ブラン、アリス役のサンドリーヌ・ボネール (妖艶の一言に尽きる)の起用も成功していた。

孤独な男の内面を、抑えた語り口で描いている所に好感が持てた。 どうも、私は、男の内面の繊細さを強調している映画に惹かれる傾向があるようだ。

個人的には、男性の方に薦めたい映画である。

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