A. 松山 映画『祭りの準備』にしろ、『郷愁』にしろ、 中島丈博の描く世界は、ある地域的な空間、 ある家庭的空間から脱皮しようとする若者のエネルギーが描かれていて、 そこには必ずと言ってよいほど、母の存在が大きく立ちはだかっていたように思う。 マザコンが流行語のように飛び交う現代において、 大人になりきれぬ若者が多いようだが、中島の描く若者は、母の愛情に悩みつつも、 母の束縛からぬけだして、自立する姿として表現されていた。 一方、父は飲んだくれか、浮気者で非経済的な生活者として描かれ、威厳もなく、 ただひたすら、頼りなくやさしい存在として、若者と関連していたにすぎない。 都会を夢みて、飛び出した若者は、その後、どうなったのだろうか? 自伝的連続小説を読むように期待しつつ、今回『おこげ』をみる機会をえた。 話は、少し横道にそれるが、わたしは、二十数年前から、ゲイバーの存在を知り、 そこに集まる人々とさまざまな会話を通じて、 彼らの悩みや三角関係で自殺した男の話など見聞きしてきたので、 中島がこの世界をどのように描くのか、興味があった。 すねて、甘えて、嫉妬して、まるで男女関係同様に、ホモセクシャルの世界も同じだが、 セックスの関係は、比較的、女の関係と異なり、浮気性のような気がする。 というのも、モテる男は自分の好みの男をつぎつぎに変えていき、 あまり長続きがしない状況をみてきた。 そういう意味で、中島の描いた『おこげ』は、 ホモセクシャル世界にうごめく人達をとりまく環境や彼らの悩み、心情などを見事に表現している。 しかし、小夜子の存在が、単なる狂言回しにしかみえなく、 あまりにも取ってつけた感がしてならない。というのも、小夜子は、 彼女の過去に父や母との別れがあったにしても、 なぜホモセクシャルの世界にはじめからすんなりとけこみ、 「あなたたちと一緒にいると心が安らかになる」のだろうか? まるで、妖精のように、剛と寺崎にまとわりつき、 不感症のように描かれているにもかかわらず、リアル的視点でみるならば、 たとえ、自衛隊の男に犯され、剛の身代わりになり、この男が剛の愛する男とはいえ、 身を委ねて、子供を作ってしまうあたりどうも理解しがたく不自然に感じてならない。 ラストシーンは、剛と小夜子とその子供のまるでごくありふれた幸せな夫婦関係にみえる表現で終わるが、 なんとなく偽善的で、後味が悪かった。 『祭りの準備』や『郷愁』で父や母から脱皮して、都会へ飛び出した若者(剛)は、 頼りがいある父(男の存在)を捜して寺崎に愛を求め、やがて、破局を迎えるわけだが、 ホモセクシャルの生き方に徹したはずの剛なのに、 そのエネルギーをより燃やす方向へ帰納しなかったのか疑問を感じる。 だが、ホモセクシャルにとってホモセクシャルの心情を真に理解できるのは、ホモセクシャルしかいないとすれば、 中島の描く小夜子は、別のホモセクシャルの化身なのだろうか? とすれば、 ラストシーンは、ホモセクシャル世界の人々が理想とする幻にも思える。 |