『ドゥ・ザ・ライト・シング』アウトラインニューヨーク批評家協会賞撮影賞受賞 ロサンゼルス映画批評家協会賞作品賞・監督賞・助演男優賞・作曲賞受賞
監督スパイク・リーの第4作にあたる。 今までの彼の作品の要素を混ぜてより強固に高度にした見応えのある作品である。 果たしてこの作品は入種差別の糾弾をしたかったのだろうか。 これとタイトルの『ドゥ・ザ・ライト・シング』はどう結びつくのだろうか? おのおのが持っているライト・シング。そしてわずかでもある人種への偏見。 そのボルテージが一気にあがった時に暴動が起こる。 一言だけで人種差別による暴動といいきってしまえないものがあるようだ。
個人的には政界に関与したり、過激な面もあるらしいスパイク・リーのようだが、 こと映画にかけてはシリアスかつユーモアセンスいっぱいにそして冷静である。 あるところでは、ウディ・アレンと比較されるというが、 かなりフィールドがちがう映画作家を結びつけてしまうのにはどういうことなのだろう。
*スタッフ*監督/脚本/製作…スパイク・リー 製作補…モンテイ・ロス 撮影…アーネスト・ディカーソン 編集…バリー・アレクサンダー・ブラウン オリジナル音楽スコアー…ビル・リー 挿入曲…FIGHT THE POWER (PUBLIC ENEMY) ほか
*キャスト*サル…ダニー・アイエロ ダ・メイヤー…オジー・デイビス マザー・シスター…ルビー・ディー ピノ…ジョン・タテューロ ヴィト…リチャード・エドソン バギン・アウト…ジャンカルロ・エスポジト ムーキー…スパイク・リー ラジオ・ラヒーム…ビル・ナン ジェイド…ジョーイ・リー ティナ…ロージー・ペレツ ラブ・ダディ…サム・ジャンクソン スィート・ディック・ウィリー…ロビン・ハリス クリフトン…ジョン・サベージ
*スパイク・リー監督*
1958年、アトランタ生。育ちは映画の舞台ブルックリン。 ニューヨーク大学映画学科に在籍中に映画を撮りはじめた。 有名な『ジョーズ・バーバーショップ』は卒業製作の作品。 第二作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』からは俳優も兼任しているが 自分が俳優だという意識はないようである。 また、製作者としてもメジャーな映画会社から資金を調達させるなど、 しっかりした見地と辣腕ぶりをみせている。
「私はコマーシャルでない映画づくりをめざしている。 だから必然的にインディペンデント映画になる。もちろん資金集めなど大変だが、 苦労して映画を作ることが私の人生だ。 パッションをもって生きている限り撮り続ける。」 (ぴあより引用。PFF'86の折のメッセージ)でいっているように、 彼の場合はハリウッドを嫌うから即インディーズといった思考の範疇におさまらない。
また、ファミリー参加も毎作ごとにさかんで、著名なミュージシャンである父ビル・リーは 全作品に音楽担当で参加している。 そして『ジョーズ・バーバーショップ』では、おばあさんがスポンサーのひとりになり、 『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』では妹のジョワ・リーのほか音楽担当の父親が俳優として、 弟のデヴィットがスチールで参加しており、『スクール・デイズ』でもジョワ・リーが参加している。
ちなみに『ミステリー・トレイン』に出演していたサンキ・リーもスパイク・リーの弟である。
補足「パブリック・エネミー」
この『ドゥ・ザ・ライト・シング』で『スクール・デイズ』のWAKEUPと同じくらい重みをもつのが 彼らのラップ「FIGHT THE POWER」なのだがどうも日本人にはわかりにくい。 しかし当地アメリカの三十代以上のしかも黒人にもラップは受け入れにくい音楽(?)だそうである。 はじめはまるでののしりあいの域にしかなかった言葉の洪水が、社会性をおび、 いまでは過激な政治的メッセージをもつものが次々と出ているという。 そのなかでもパブリック・エネミーは民族意識をまるだしにした過激なラップで人気がある。 白人のファンも多いらしい。(ニューズウィーク日本版 '90・4・5号 「ラップは怒リの声」より)
過去3作品
『JOE'S BED-STUY BARBERSHOP:WE CUT HEADS』ジョーズ・バーバーショップ
ニューヨーク大学映画科の卒業製作として作られたのがこの作品。 ロカルノ映画祭銅賞、アカデミー賞学生映画賞10周年コンペ:ドラマ部門功労賞など 彼はこの第一作から高い評価を受けている。
あくまでもいわんとすることはシリアスだが、ユーモアとイキのいい会話のリズム、 しっとりとしたジャズでコーティングする彼の作風はこの作品からすでに存在している。
一軒の床屋が賭博場を兼ねてしまう設定や、ギャングとのかかわり、 真面目だが学校にいきたくない少年、エレベーターが壊れたままの高層雑居アパートなど 偽りのない黒人社会を乾いたタッチで描いている。 『ドゥ・ザ・ライト・シング』を観るならこの作品と共有している彼の映画のセンスを感じてみるのもいい。
('82年作品 16ミリ)
『SHE'S GOTTA HAVE IT』シー・ガッタ・ハヴ・イット
三人のボーイフレンドとそれぞれに関係をもつノーラ(トレイシー・カミラ・ジョーンズ)は、 「男なし」で夜を過ごすことができない。三人の男達はそれぞれちがったタイプだが、 街で彼女に一目惚れした、真面目で誠実なジェイミー(レッドモンド・ヒックス) をどうやら一番愛しているらしい。 それでもひとりに男に束縛されることを生理的に受け付けないノーラはいったんは三人とも失ったりしながら、 ひとりで寝る夜を持てるようになる。「私のことを愛してるというジェイミーだって、 結局は束縛したいだけ。男はみんな女をそうしたいの。私は誰のものでもない。」
ここにはひとりの女性の目覚めの姿が描かれてはいるが、 極めてさリげなく最初から最後まで流れるような、リズムが心地よい。 モノクロの中に黒人女性の肢体がまるでプロモーションビデオのように緩やかに浮かびあがる。 ベッドシーンはとリわけ美しい。
この作品で得た「女の体」が持つ生命力とか躍動感の美しさは『ドゥ・ザ・ライト・シング』 の中でも十分理解され描かれているといえるだろう。しかし、 ここでは例の過激なメッセージなどはウィットとセンスの中に散りばめられているにとどまっているため、 たとえば伊達男のボーイフレンドがベッドインの時に丁寧に服をたたんでイスにかけたり、 リー演ずるいかれマーズのユカイなキャラクターといった笑いのリズムとセンスのよさが全編に満ち溢れている。
女というものが、とても気持ちよく描かれているスパイク・リーの長編第一作。
('85年作品)
『SCHOOL DAZE』スクール・デイズ
キーワードはWAKE UP。
「SCHOOL DAYS」ではなく『SCHOOL DAZE』。DAZE、眩惑である。 人をくったようなタイトルはやはりスパイク・リーだなと。 オープニングは歴史上有名な黒人の写真を画面においてゴスペル調の音楽からはじまり、 豊富な音楽満載のミュージル仕立てだが、 学内で対立していた黒人解放運動のリーダーと白人志向派のリーダーが歩みよって “現実に目覚めよ”とはっきリいいきってしまうあたりは、 『ドゥ・ザ・ライト・シング』とは趣向が異である。 黒人としての意識の違いや差別、エリート意識などをストレートに投げ掛けている点も見逃せない。
ベッドシーンも幾度か登場するが、相変わらず美しい。
('88作品 日本では劇場未公開)
トーキング・アバウト・ア・スパイク・リー・ジョイント『ドゥー・ザ・ライト・シング』トークした人 田川♂・大牟礼♀・地畑♀・竹内♂
(構成・R)
田川
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「まず、とにかくイキがいいよね。」
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地畑
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「そうそう、アタシもそう思った。 音楽にパブリックエネミーの“ファイト・ザ・パワー”を使ったのっていうのもスゴイと思う。」
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竹内
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「それって何?」
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地畑
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「だからラップの中でも一番過激なヤツなの! とにかく過激なの!」
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田川
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「なんであんなにイヤな事ばかりなのに、みんな生き生きしてんだろうね。」
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大牟礼
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「日本であーゆーの作ったら暗くっていうか・・・ああはならない。 だいたい、あんな道端で日がな一日仕事もしないで喋くってるおじさん達なんて、 (真っ赤をバックに!!!!)はっきりいってレゲエじゃない。なんか明るすぎる。 やっぱりアレっきゃないぜ!とか言っちゃって・・」
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地畑
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「日本のレゲエの人ってもっと孤独だよね。 あの独特の明るさっていうかはやっぱり黒人街、ブルックリンだってことも当然あるよね。」
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田川
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「人種問題みたいな切り込みじゃないよね、モチロンそれも重要ではあるけど。」
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地畑
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「日本じゃ、まずできない映画。」
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田川
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「できるとしたら大阪とかね。」
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大牟礼
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「新宿もそうなってほしいナ。」
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田川
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「生活の実質みたいなものが明らかなところ。要するに、第三世界なんだよ。」
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地畑
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「エッ? 第三世界って?」
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竹内
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「そうよ。アメリカなんて第三世界よ。僕、アメリカに留学してたとき水道の水飲んで、 腹こわしたもん。」
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一同
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「ホント!?」
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竹内
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「一週間、入院して大変だったのよ。 それから免疫ついて東南アジア行っても全然平気になった。」
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大牟礼
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「水道の水でおなかこわすんじゃ、第三世界だわ。」
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田川
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「第三世界ってつまり、単にお金がないとか、物がないとか、ソフィスティケイトされてない、 とかじゃなくて、今物事が立ち起こっている勢いとか、それを感じている人々の同時性みたいなものが、 スゴイ力になっているんじゃないかな。」
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一同
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(うなずく)
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田川
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「今まさに生起している事を語るってスゴク難しい。」
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地畑
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「逆に言えぱ、日本映画がつまらないのは、今まさに生起するものがないっていうこと?」
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大牟礼
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「あることは、あると思うけど・・やっぱり切迫感がないのかな。 そんなところで、例えば今アジアがすごくオモシロイとか・・・そういうことになっちゃうのね・・・」
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田川
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「そう、とにかく人間がオモシロイよ。生き生きしていて・・・」
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地畑
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「あんなガンガン、ラジカセかけて歩ったらやっぱり迷惑と思う、日本だと。 でも、彼にはそれっきゃない!」
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大牟礼
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「そうよ。イタリア人のピザ屋に黒人の写真が飾ってないとか、 よくよく考えると結構めちゃくちゃなコト言ってるなあ、と思ったり・・・」
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田川
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「役者自身のうまさっていうか、おもしろさってカナリあるね。」
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地畑
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「あのおばあさんの人、きれいだった。リリアン・ギッシュにちょっと似てて。」
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田川
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「品があってね。それぞれの実生活でのバックラウンドみたいのが、 やっぱり滲み出てるっていうか。」
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地畑
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「でもムーキーなんて、あんな働きで週五〇ドルの稼ぎなんて悪くないよね。(笑い)」
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田川
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「ホント仕事なんてサボる事しか考えないし・・」
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大牟礼
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「途中で彼女(奥さん)のとこ行っちゃうし・・」
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田川
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「それに今どき、兄キ食わせてくれる妹なんて日本にいないゼ!!」
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地畑
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「イナイ! イナイ!」
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竹内
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「でも、ブルックリンは家賃高いんだよ。」
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大牟礼
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「いくらぐらい?」
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竹内
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「うーん、郊外で家を借りて一〇万円ぐらいするんじゃない。」
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大牟礼
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「安いじゃない!」
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地畑
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「アメリカでピザ屋の配達っていったら社会的にはどれぐらいなのかしら。」
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竹内
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「下層じゃない?でも、定職があるだけいいほうじゃない?」
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大牟礼
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「ところで、アメリカの白人の黒人に対する差別の意識って、 例えば他のアジア人とかに対するのと根本的に違うような気がするけど・・・」
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竹内
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「それは全然違うんじゃない。実際行って感じたけど・・・ 店先とかに出てる求人広告とか、はっきり「黒人お断わり」っていうの、よく目にするし・・・ まあ、ぼくなんかでも道歩ってて石とか投げられたけど。」
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一同
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「ソーッ!」
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大牟礼
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「それって、何なのかしらネ。」
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竹内
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「近すぎるんじゃないかな。長いこと隣り合わせてやってきたっていうか。」
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大牟礼
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「私なんかは、例えば、スゴク踊りがうまいとか、スゴク歌がうまいとか、 そういうことに対する、羨望みたいなのがあるのかなとか、思ったりするけど・・」
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田川
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「黒人だって、ヘタなやつはヘタだよ。ただ、そういう脅威はあるんじゃない。」
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竹内
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「あと、性的な恐怖感ってあると思う。」
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田川
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「アレが、デカイとか?」
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竹内
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「まあねー・・・」
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地畑・ 大牟礼
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「エッ!?」
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竹内・ 田川
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「いや、ホント。」
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地畑
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「やっぱり賞を取れなかったっていうのは人種差別が関係あるよね。」
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大牟礼
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「確かに、うんと解りやすい映画というのではないね。 今までの映画と土壌が違うっていうか…」
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地畑
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「初めての黒人の文体というか・・」
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田川
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「小津があれだけ世界で騒がれたのは欧米の人にとっては、 はっきりいって自分達と違ったものがあったからで、 そういう意味でスパイク・リーは違うものを作ったわけだよ。」
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大牟礼
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「つまり、さっき言った同時性につながるのね。」
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田川
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「そう、そう、」
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大牟礼
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「自分の置かれた状況をあれだけ明確にだせた人っていないんじゃない。 そういうのを出そうとしている人はいるけど、なんか暖味に終わってしまうっていうか・・・」
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地畑
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「何となく、モヤモヤしてるんだけど・・・」
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竹内
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「何が?」
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大牟礼
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「それが何か解らないけど、スパイク・リーはそこら辺のところをはっきりさせたっていうか…」
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田川
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「それは世代っていう事じゃないのかな。」
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地畑
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「世代って?」
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田川
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「だから、新しいものの感じ方だよ。それぞれの世代ってあるでしょ。 それによってものの感じ方が違うっていうような。 ただ、その世代っていうのは、当事者がこれだって示さないと年長者には解らないものなんだと思う。 スパイク・リーは、まずそれに成功したわけだよ。」
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地畑
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「つまりムーキーの世代のっていうこと?」
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田川
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「そう、スパイク・リーの・・人種差別あり、人種摩擦あり、その他もろもろありなんだけど、 要するにムーキーの世代、スパイク・リーの世代なんだよ。」
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大牟礼
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「じゃあ、まさにイマの世代ね。」
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地畑
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「スパイク・リーが次に何を作るかすごく楽しみ!!」
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『ドゥー・ザ・ライト・シング』映画評
「正しいこと」ってなんだろうね
外山
スパイク・リーという人、ニューヨーク大学の映画科では誰も彼の才能には気がつかず、 いつも悪い点ばかりくらっていたという。 出来の良くないわたしにはなんとなくホッとするような人。
『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を見た時には、 変わったセンスの人だなとしか思わなかったのだけれど。 今度のこの映画ではほんとに映画をかれのものに取り込んでいる。 音楽の使いかた、カメラワーク、人物表現、ストーリー、何も彼も一段も二段も成長している。 しかも彼が黒人であるがゆえのメッセージをも観客に訴えている。
ラストにキング牧師とマルコムXの言葉をスーパーで流す。 キング牧師とマルコムXといえばまったく反対の意見を持つ黒人の指導者だ。 要するに「ドゥー・ザ・ライト・シング、ものは見方によっていろいろな見方ができるよ。 正しいことっていったい何だろうね。何だかよくわかんないけど、ともかく正しく物事を見て、 正しいことしようよ」って事なのね。
スパイク・リーっていう人、本人がいつも映画に出演しているんだけど、 ほんと見掛けは頼りなさそうな人なのね。やせてて、小柄で、 度の強い眼鏡なんかかけちゃって。何かウッディ・アレンの黒人版みたいなさえない人。 でもやることはすごいというのもウッディ・アレン並よね。家族にも恵まれているみたいね。 お父さんは音楽担当しているし、妹は美人でやっぱり妹役で出演しているし。
ブルックリンが舞台なのだけれど、ブルックリンっていうところは 例のAトレインに乗ってマンハッタンからハドソン川を渡ってすぐの地区なのだけれど、 ほんとに黒人ばかりが住んでいます。まあハドソン川を渡ってなんて言っても、 地下鉄だからどこでハドソン川を頭上にやりすごしたのか分からなくて駅名で判断するんだけどね。 ブルックリン地区にあるバカでっかいロフトに住んでる芸術一家のパーティに招待されたことがあったけど、 そっちの方面への地下鉄に乗ったとたんもう黒人しか居なくて、 こうなると白人とか黄色人種のほうがマイノリティよね。 相手方も私たちも平気な顔していたけどわたしは相棒の手を汗が出るぐらい握りしめていた。
そういう状況の黒人街でピザ屋を開いているイタリア人一家のおやじ、サル。 彼は黒人を差別しているどころかかえって自分のピザを食べて育った子供達をみて喜んでいるというような偏見のないおやじ。 ただしサルの長男は黒人街の中の白人、マイノリティ意識があって黒人達を恐れつつ嫌ってもいる。 この長男の恐怖と気嫌いが事件を引き起こすきっかけになるのだ。
このピザ屋とその向かいの韓国人夫婦の経営するデリ(食料品店)以外はみんな黒人ばかりで、 従ってこの映画のなかであからさまに黒人差別をしているシーンはない。 主人公ムーキーの友達はサルがイタリア出身の有名人の写真しかピザ屋の壁にないと言って 「差別だ」と叫び、「黒人の写真が壁に貼られるまでヤツのピザは食べない」という。 サルはイタリア人だからイタリア人の有名人を誇りにしているだけで、 彼の気持ちに差別感などないのにである。
それなのにやっぱり事件は起こってしまう。 でっかいラジオカセットをいつも持ち歩いていた黒人の男がラジオのボリュームが原因で喧嘩になり、 止めに入ったポリスにめったうちにされて死んでしまう。 差別でもなんでもなく、もしかしたら偶然の成り行きだったかもしれないのに、 人々は口々に差別だ差別だと叫び、ひいては行きどころの無い怒りをサル一家にぶつけ ピザ屋に火を付けてしまう。
で、ラストの暴力を否定するキング牧師の言葉と、 時には暴力も止むを得ないものとして認めるマルコムXの相反する二人の言葉に繋がっていく。 どっちを取るかはあなたが自分で決めること。 現実には誰が良いとか、悪いとかはっきりしないところで事件は起きてしまったのだ。 一つの小さなきっかけが次の事件に、そしてその事件はさらなる大きな事態に波及する。 『ドゥー・ザ・ライト・シング』正しいこと正しくないことをはっきり見極めて、 正しいことしようよ。ところで正しいことっていったい何だろうね。 というのがスパイク・リーの問いかけ。次なる彼の作品に乞うご期待。 答えのキーワードが案外次回作に見つかるかもしれない。
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『マパンツラ』Mapantsula
'88南ア・豪 作品 '88カンヌ映画祭ほか出品 '88豪人種映画賞受賞
あなたが見聞きしている南アはリアルですか?
実にリアルである。黒人スタッフがヨハネスブルグと実際のソウェトで撮り上げたからリアルなのである。
今ではアパルトヘイトという言葉を知らない人はいなくなった。 ひとえにマスコミのおかげである。しかし、その飛びかう報道の中で南アの “白人は悪い人。黒人はいい人、悪い白人にいじめられてかわいそう” という色分け公式が成り立ってはいないだろうか? たまに“いい白人”もいるが、まるで彼ら黒人の救世主のように描かれていたり、 白人が自分達の負い目を隠すかのように、“どの黒人も善人” に描いたりしているのを現状としてとらえていいのだろうか。
この『マパンツラ』の主人公パニックは良くない黒人である。 マパンツラ(チンピラ)である。ひったくりはする、万引きはする、女のヒモにはなる、 「近頃の若者は…」とバスの中でおばさんたちにささやかれるような働く努力はまったくしない男である。 南アの黒人はいつもこぶしをふり挙げて「アマンダラ」と叫んでいるわけではないのである。 パニックほどいい加減でなくても、国の情勢がどうのこうのといったまわりのことより その日を生きることが一番大切な黒人だってたくさんいるのである。 一方では体制側の黒人も少なくない。パニックが入った刑務所の政治犯も黒人なら、看守も黒人。 デモをするのが黒人なら、銃をもって制圧するのも黒人鼻摘みもののソウェトの自治会の役人たちは、 公約をほとんど果たさない(たとえば電気の配線など)体制協力者で黒人。 マスコミがつくった公式は現実とはいいがたいのである。 今の南アの問題が黒人差別の告発よりもそれをも包含した体制への抗戦であることがこの作品には淡々と描かれている。
パニックは、警察の協力を強いられる。集会にもいったこともなく、 国の現状など関心もないのに政治犯と同じ監獄に入れられ、彼らを指す役目を与えられる。 食物でつられ嫌味な尋問を受けるうちに、単純な彼も気づきはじめる。 活動をしていた友人のサムの巻き添えになった自分。デモの中で消えたサム。 彼の母親の悲しみ。必死に探すサムが見つからない落ち込んだ思い。 密告の見返りという甘い汁を吸った自分を目の前の警察官はまた利用して、 活動組織を一網打尽にしようと企んでいること。同房の政治犯たちの清廉なほどの団結。 ・・・今白分ができる正しいこととは何か? 目の前にある嘘の供述書にサインをすることではない。強制されても「NO」と答えること。 ・・・政治的に目覚めていない無名の男が度重なる尋問の中で次第にラジカルになっていくさまが、 心地良いテンポで語られている。ミュージカル「サラフィナ」で南アの黒人は祖国を語った。 そして『マパンツラ』で南アの黒人はリアルな祖国を語っている。 ハウスメイドという南アの女性の多くがつく条件の悪い職業。 白人の有閑夫人の無理解さ。しぶといパニックに向ける尋問する白人警察官の憐れみの目。 通りで遊ぶ子供の明るい声。そしてアカペラでうたう監房の政治囚の歌・・・。 そして私達名誉白人ニホン人は、この国に何を DO THE RIGHT THING していいのかわからずにいる おろかな経済先進国の住人なのではないだろうか。 (1990年7月26日〜8月7日 シードホールにてロードショー)
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