女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
15号 (1990.06)  pp. 41 -- 42

電影大陸ASIA

侯孝賢の映画から

R. 大牟礼

以前に友人と話していて、こんな経験をしたことがあったのだが、 それは彼女のシンガポール人の友達のことだった。その人は華人で、 英語も中国語も広東語も喋ることができたのだが、 例えば考える時は何語で考えるのだろう、友人の何の気なしの疑問は、 はたしてその人は物事を深く深く掘り下げて考えたり、思いに耽ったりする時、 日本人が日本語でするようなやり方は出来ないのではないか、というようなものだった。

私はその時気持ちの上では猛然と否定したのだが、とっさに口にでたのは、 「そんな事は絶対ない。」というだけで、相応の理由は皆目思い浮かばず、 ただ闇雲に違うと主張したような記憶がある。何故、という疑問が心のどこかに残ったまま、 その後(おもに華人なのだが)三つ、 四つあるいは五つも言葉を使い分ける友人に接っするようになった。 例えば上海で生まれて、文革ですぐヨーロッパに渡りドイツに住んだり、 英国の学校で学んだりして、これからは香港に住むのだといった人達・・・・・・・ 言葉の遍歴は、何も住む場所を次々と変えてゆく中からのみ生まれるのではない。


中国から帰国した後に観た一篇の映画は、台湾の侯孝賢という人の『童年往事』という映画だった。

一九四八年に大陸から台湾へと移ってきた一家族の中の阿孝(アハ)という一人の、 少年から青年へと移ろって行く時が、客家語と標準語と南語、 という多言的な言葉の中で綴られていく。

阿孝を可愛がってくれた祖母は客家語しか解さず、 一人客家語を眩きながら大陸への帰路を探しさ迷い歩く。 中山大学で教育を受けた父親は標準中国語を話すが、 寡黙で肺病を病んでいるため家族からはいつも離れるようにしている。 (子ども達がこの事実を知るのは彼の死後のことである) 母親と長女が外に雨音を聞きながら会話をする傍らで、 阿孝は町の同世代の中に居場所をみつけ、南語でバンカラを気取ったりする。

子どもが成長するにつれ、年長者はごく自然に朽ちるように静かに死んでいく。 祖母は阿孝に大陸への幻の帰路と客家語でよぶ「アハ」 という響きだけを残して一人死んでいったのだろうし、 父はその死後になって出てきた日記の中でのみ 「初めは台湾に二〜三年いて帰るつもりだったので、家具は竹製の安いのばかり買った…」 と無念を述べ、母は大陸に残してきた子どもや死なせてしまった娘のことなどを愚痴りながら やはり死んでいく。父も母も果たせなかった夢を抱いたまま、 それを子ども達に託するでもなく自身の内に抱いたまま朽ちていったのだろう。

それぞれがそれぞれの言葉を有する一家は、手を取りあったり沢山の言葉を交わしあったりしながら、 彼らが生きた歴史といったものを乗り切るなどということはしない。 彼らの個々の歴史?生や死は、映画の中にたち現れる光や音の一見雑然としたざわめきの一つにすぎず、 まるで「意味あること」ではないようにひっそりと進行する。沢山の言語もまた 「意味のある言葉」の数々ではなく、混じり合わない音のざわめきで人はただその中に身を置くだけである。



『童年往事』の中で祖母ー父ー母ー兄弟というように連なる縦の流れは、 『悲情城市』では画面の外へと、横へ横へと拡散していく。 言葉もまた縦の繋がりではなく、横の拡がりとして「ざわめき」の度合を一層増す。 一九四五年、五一年間におよぶ日本統治から開放された台湾で、林家を取り巻くのは、 台湾語であり北京語であり上海語であり広東語でありさらに日本語であった。

林家と、張り合う上海やくざとの間には台湾語→広東語→上海語という通訳が介在し まどろっこしいやり取りは彼らの距離を隔てることしかしない。 直接話ができるのが、双方の広東語の通訳という役回りの二人で 彼らは厠所で広東語でやり合い流血のけんかに至る。

男たちが使う言葉は、コミュニケーションを目的として語られながら 全く機能しないばかりかもめ事をもたらす。 無意味な言葉のやり取りの中で李天涙翁演じる老家長だけが自分の言葉を有するかのように 勝手気ままに画面の内に外に現れては、誰も聞いていないような「たわごと」 を言うだけ言ってはすっと消えていく。知識層が集まる写真館では、 男達が熱っぽく結論のない政治談義を繰り返す。その横には口のきけない文清と、 寛美が『ローレライ』の歌と筆談とで言葉を発する事なく心通わす姿が配される。

男達が無意味な言葉の氾濫の中で死に急いでいくのと対照的に、 沈黙にも似た女達の声?静子による「赤とんぼ」の歌や日本語のナレーション、 寛美の日記や筆談の内容の朗読、阿雪の手紙など?は、 余韻となってそこここにたちこめ永らえる。 さらに聾唖の文清のために登場する筆談の内容の記述は、純粋に漢字の形状の美しさを伝える。 声による陳述と文字による陳述は言葉に「音」と「形」 という純粋状態の中で生きることを許している。

映画の中の言葉は、画面の内に外にばらまかれた他の要素— 光や影と同じく、ある特殊な効果をもたらす。私たちはまるで盲目の人が、 ロダンの彫刻を触って感じるあのやり方— 掌から伝わる感触から世界を想像/創造するという感動を体験をする。 侯孝賢のやり方が中国の伝統的な美意識を念頭に置いたのであれ、 私たちはそこにやはりある種の新しさ・なにか違うものを感じる。

雑然と語り出す詩こそが世界を形づくるのであり、私たちはそれら無数の詩を受け止め、 受け入れることによって『悲情城市』の世界と向かい合う。



一つの社会がある大きな揺れを体験しているとき、 当事者は自分達のやりかたでその揺れに対応する方法を探っていかなくてはならない。 身をもって感じているであろう現実生活上の切迫感や危機感が台湾という島を取り巻いているのなら それら諸々の事情もまた侯孝賢を世界との対話に向かわせているのだろうと想像することも可能だろう。





〓: 門がまえの中に虫 (ミン)
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