女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
14号 (1990)  pp. 75 -- 76

読者の映画評

『中国映画について』

そしてシネマジャーナルとの出会い

宮崎 暁美

友人から「中国映画、けっこういいよ」と言われていたけれど、見たことがなかった。 でも一昨年、池袋文芸坐で『芙蓉鎮』を見てとても感動し、 中国映画の質の高さにびっくりした。 そして、中国映画に対する偏見が消え、すっかり中国映画のファンになってしまった。 それどころか今まで映画なんて、年に十回ぐらいしかみなかったのに、 映画にのめりこむきっかけにもなった。 その後、中国映画祭や中国映画上映会等に通い、この一年余りの間に 約四十本の中国映画を見た。

今まで外国映画というとアメリカやヨーロッパのものばかり見ていた気がする。 『芙蓉鎮』は、他のアジアの映画にも目を向けるきっかけにもなり、その後、 台湾や韓国、香港などの映画も見るようになった。

『芙蓉鎮』では二人の心が通い合い、喜びにあふれた表情で石畳通りを 踊りながら掃除するシーンが、とても感動的で気にいってしまい、 そのシーンを見たいがために十回も見にいってしまった。 そして、すっかり姜文のファンになってしまった。 しかし、何回か見るうちに彼がやった役は、かなり理想化されすぎているとも感じた。 それに謝晋監督の他の作品を見て彼の作品にはある種のパターンがあるなと思った。

そして『紅いコーリャン』にも姜文が主演していることを知り、見にいった。 この映画は、ベルリン映画祭でグランプリを取り、あちこちで話題になっていたし、 シネマジャーナルでもお勧めの映画だけど、私はあまり好きになれなかった。 映像はすばらしかったし、民族音楽もとても耳に残った。 女優のコン・リーも存在感ある演技で良かったと思う。 でも、すごくいやだったのは彼が彼女を連れていくシーン。 何か物を運ぶように彼女を持っていくあのシーンがとてもいやだった。 しかも、二度もそんな場面があって“女を物のように扱うなんて”とムッとしてしまった。 それに、ストーリーの展開もいまいちだった。 そして何よりも彼女と彼が惹かれ合っているというのが全然感じられなかった。 なんかマッチョの映画という気がした。 でもあの映像は目に焼きついている。

シネマジャーナルを知ったのも『芙恋鎮』がきっかけだった。『芙蓉鎮』を見たあと 岩波ホールのパンフやキネマ旬報などに載っていた記事や批評を見たけど、 自分の感じたのとは違うなと思っていた。それらには、みんな女優の劉暁慶が すばらしかったと書いてあったけど、私は彼女の演技にはとても不自然さを感じていた。 確かに彼女が主人公には違いないのだけれど、 それよりも私は相手役の姜文の自然な演技にひかれた。

そんなふうに思っていた時、文芸坐シネブティックでシネマジャーナルに載っていた 『芙蓉鎮』の批評を見て、私と同じ思いの人がやはりいたんだと思い、 他の号といっしょに三冊まとめて買った。それが私とシネマジャーナルとの出会いだった。 女の視点から見た、映画の批評誌というのが今までなかったのでとても新鮮だった。 その後、シネマジャーナルを毎号買うようになり、いまでは創刊号以外は全部揃った。 中国映画のこともけっこう載っているし、読んでいて共感を感じることが多い。

ところで、さどじゅんさんが十二号で「中国の映画人」を紹介していたけれど、 今度は孫自強さんに『芙葱鎮』撮影時のエピソードなども聞いて欲しいなあと思った。

私が中国映画にひかれるのは漢字文化圏の身近さがひとつあると思う。 そして、映画の中に出てくる登場人物のふとしたしぐさや、食事の仕方、 生活習慣などに日本との共通性がたくさんあり、日本文化のルーツ的なものも感じる。 文化、生活、習慣、食事の仕方など、日本に伝わってきたものと、 伝わってこなかったものを比較しながら見るのもおもしろい。

しかし、何といっても中国映画にひかれるのは女性の描かれ方。 家族や会社、社会の中での女性の位置、活躍、そして日常生活での男と女の関係性が、 気持良い。

例えば、食事のシーンがある。日本映画なら、まず給仕をするのは女の役割と 決まっているようなものだ。 しかし、中国映画では、男が御飯をよそっていたりする。 男が料理を作ったり、買い物をしたりというシーンも 全然、不自然ではない。些細なことではあるが、 このようなことに象徴される中国の女と男の関係のあり方が、 私には非常に新鮮でもあり、うらやましくもある。

そして、労働における女性の参加も多く描かれている。 『芙蓉鎮』でも家を建てる場面でヒロインが柱や瓦を運ぶシーンがあった。 『古井戸』でも井戸を掘る場面で女たちが男たちといっしょに泥まみれになって 働いているシーンがあった。それらは貧しさのためと言えなくもない。 しかし私はこんなシーンに中国の女たちの力強さを感じる。 私が中国映画にひかれるのは、この女性たちの存在感や力強さに負うところが大きい。

中国人の友人が「いくら毛沢東が『天の半分は女性がささえる』と言っても、 実際は封建的なものが残っているのよ」と言っていた。 しかし、少なくとも映画に描かれているのは、 男と同じ様に社会参加している女たちである。 男に奉仕する女や、男にとって都合のよい女像ばかり描いている 多くの日本映画とは雲泥の差がある。

開放政策によって自由で伸びやかな映画がたくさん作られてきた中国映画界ではあるが、 あの天安門事件以後中国の映画事情が変っていくのではないかと不安をもっている。 政府に対して批判的な箇所のある映画が作りにくくなったり検閲が強化されて、 おもしろくもない映画ばかりになってしまうのではないかという、不安もある。 こんなことにならないように祈りたい。 私は、これからも素晴らしい中国映画を見たいから。

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ:
order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。