R. 大牟礼 六月四日の上海は、その前の日と同じ朝を迎えた。 四月の胡耀邦の死に端を発し、五月中旬にはあれほどの盛り上がりをみせた、 中国の民主化を求める運動も、李鵬ら強硬派が実質的な実権を握り趙紫陽の失脚が噂される頃には、 少なくとも上海の人々は、急速に生活のほうへと戻りつつあった。 あるいは以前よりも整然とした空気すら感じられるようになっていた。 それは不思議な光景だった。 それでも留学生の間では、天安門ではまだ学生が随分残っているらしい、 どうやら地方からの学生が多いので夜になっでも行くところがなくて その場に留まっているというのが現状らしい、 などと「運動」に関する話題には事欠かなかった。 だから六月三日、外国放送で入った「軍が天安門に入った」 というニュースもさっと広まっていた。 そんなような日々のなかで、四日朝「軍が発砲し死者がでた」というニュースが伝えられた。 伝えられる死者の数は十数人、四五十人、二百、三百と時間を追う毎に増えてゆき 最終的には百や二百では納まらないほどの人々が天安門で軍の銃により本当に死んだのだ、 と一時間毎に入る外国放送によって知らされた。 信じがたいことだった。 留学生楼は、数日のうちに一転して慌ただしい帰国の空気に包まれていった。 一年近くの月日を過ごした上海の街をそんな風に、 まるで夜逃げでもするかのようにして離れるのは辛い悲しいことだった。 帰国してから二ヶ月ちかくが過ぎようとしている。 帰国直後は、連日「中国でのこと」をショッキングに深刻に伝えていたテレビや新聞も、 次々と新たなニュースに塗り替えられ、あたかも流行の服を買い替えるかのように 「むかし」の中国のニュースはどこかにしまわれてしまったのではないかしら という印象を持つのは、おそらくわたしの身びいきなのだろう。 経済大国ニッポンは世界のニッポンでありこのニュースもあのニュースも追っかけなくては、 取り残されてしまうのだ。 だからみんな考える前に忙しくせっせと働かなくてはいけないのだ。 ほんの一月程前まで「民主主義」について熱烈に弁を奮っていた人達は今は、 「ニッポンの政治」(そんなものがほんとにあるとしたら) について同じぐらい熱烈に弁を奮っている。 そんな中には(もちろん心底この隣人のことを思っている人もいるけれど)、 単純に自分の物差しをあてがって批判する人もいたように思える。 先日『さよなら子供たち』を見たとき「密告者」という言葉に過敏に反応して ある痛みを覚えた。 正義や人権の名のもとに外側からあの流血の首謀者を非難することはたやすい。 中国の「密告者」達を異邦人のように冷たい目で見るものは、 果たして自分にはそうならないという思いを一点の曇りなく言うことが出来るのだろうか。 中国の友人達は、怒りも憤りも悲しみも、自分たち自身に向けなくてはならない。 そのような思いを果たして私たちは理解できるというのだろうか。 手元に、読み終えたばかりの本『中国社会の超安定システム』がある。 文革終息後、学術研究に戻った若い知識人達にとって、この本が取り上げる、 「中国封建社会の長期持続」に関する研究はとりわけ現代中国社会にとっても 重要な関心事である。文革期に出現した「封建専制主義」を育んだ歴史的土壌が依然、 中国の近代化、民主化の巨大な障害になっていることを認識する人々は多い。 事実、権力の党指導者への過度の集中、幹部の特権化世襲化といった現象は、 そっくり今の中国社会にもあてはまる。 これらの弊害を克服し未来と発展を目指してきた中国社会が、 奇しくも自ら克服しようとした弊害によって歴史を逆行するかたちになってしまった。 この本の最後は、このように結んでいる。 進歩的な知識人達が今現在どのような状況下におかれているかは想像するに易い。 同じく若い映画人たちがある精神的苦痛の中にいるであろう事も容易に想像がつく。 彼らが絶望の「深い淵」にいるのではなく、 そのような希望をそっくり今現在でも持ち続けているだろうと想像することは 取りもなおさず、私達にとっても希望である。 帰国してすぐに『赤いコーリャン』を見た。 この生命力に満ち、ふてぶてしく生き、あるいは死んで行く人々は、 明確なヴィジョンをもたないまま明日をむかえる世界に生きる私達に (それは日本にしろ中国にしろおなじことだろう)、 とにもかくにも活力を与えてくれる。 中国の友人達、友人でない中国人達、海のすぐ向こう側の隣人のことを思うとき、 ある親近感を覚える。 彼らにけっして奇異の目を向けまいと思う。 彼らを異邦人として見まいと思う。 そんな時中国人は、赤い衣装に身を包み、コーリャン畑を行く花嫁のように不敵に、 美しく微笑むことだろう。 |