監督インタビュー
* はじめに
約一時間の16ミリの記録映画『戦場の女たち』は、 32歳の戦争を知らない一女性の手によって生み出された。 ニューギニア戦線。そこは、太平洋戦争の最南端の激戦地。 多くの日本兵がその地で悲惨な最後を遂げた。 敗走中、食べるものがなくなり仲間の人肉を食べてしまった話など、 男たちが苦しんだ記録は多く残されている。 (『ゆきゆきて神軍』『きけわだつみの声』『野火』等の映画を観て下さい)が、 それでは、女はこの戦場にはまったくいなかったのか。 現地の女たちは、彼らとどうかかわったのだろうか。 素朴な疑問を持って関口さんはこの地を訪れる。
関口さんは、日本の大学で国際関係論(対外政策決定)を学ぶとオーストラリアに渡り、 国立大学の太平洋研究所員になった。 もちろんこの研究所は映画の技術を教えるところではない。 彼女はここで「日本がなぜ太平洋戦争を起こしたのか」という修士論文を書いた。 つまり彼女は映画人でなく学者なのである。 学者が、学んだ知識を論文で発表するのではなく、映画で発表する。 こういうことがオーストラリアでは、どんどん行われているという。 そうしてできた記録映画は、視聴覚教材として小、中学校にきちんと行き渡るのだという。 映画の内容もさることながら、この映画づくりの裏方的興味、資金づくりや、 技術面について関口さんに伺ってみた。
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■この映画の製作費はどのくらいですか?
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「約二千万円です。そのうち自己資金は二百万円でしょうか。 あとの資金はすべて、オーストラリアから借りました」
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■どのようにして、借りるのですか?
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「私はオーストラリアの永住権をもっているのですが、これを持っていると、 フィルムコミッションからお金を借りることができます。 私の場合シナリオの段階でまず百万もらいました。 そして、できたシナリオと簡単なビデオを持ってコミッションに面接にいきます。 それで良いとなったので次のお金を貸してもらえたのです。 また女性の場合は、ウイメンズファンドを利用することもできます。また、 白人でないというハンディキャッブがある方がファンドをより多く利用できるということもあります。 それから、オーストラリアフィルムコミッションは連邦政府の機関ですが、 自分たちの住んでいる州にもそれぞれフィルムコミッションがありますので、 それを利用することもできます。」
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■では、映画を作りたいと思う日本女性が オーストラリアに行けば映画を作れるのでしょうか?
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「永住権があれば、不可能ではないですね。」
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■永住権をとるのは、難しいのですか?
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「なにか技術があると、比較的易しいです。私の場合は日本の研究をする研究者が欲しいということで、 永住権がもらえたのです。」
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■このお金は返さなくてよいのですか?
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「インペストメント(投資)という形になっていますので…。そうですね。 でも出来上がったら何パーセントかは返すということはあります。」
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■オーストラリアでは記録映画づくりが盛んなのですか?
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「そうです。劇映画でも記録映画っぽいものが多いのです。 記録映画を作ろうという人は自分の事をフィルムメーカーとよんで三年も四年も、 そのひとつのテーマを追って作り続けて完成させます。 カメラも自分でまわしたりして…。『ハーフライフ』を作った監督なんかそうでしたね。 日本では、一本の映画を完成させるまでの期間がとても短い。 これはオーストラリアでは考えられないことです。」
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■この映画はオーストラリアではどのように上映されるのですか?
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「配給会社があり、その会社は上映館を持ってますのでそこで上映されることが決まっています。 併映ということではなく、ちゃんと一本だけでです。そして、 そのあとは視聴覚教材として学校で使われます。そしてこれらは、オーストラリアだけでなく、 ニュージーランドやパブアニューギニア、フィジーなどにも送られます。 これらの国々は強力なネットワークを持っていますので…」
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■日本でこういう映画を作ったら文部省は買ってくれるのでしょうか?
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「ないと思います。検閲がありますし… こういうのを作ったら日本では自主上映にたよるしかないのが現状でしょうね。 ただ、日本ではプリント自休を販売するということができます。 オーストラリアでは、プリントが売れるということはほとんどないです。」
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■脚本は関口さんが、お書きになったのですか?
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「ハイ、プロデューサーから録音から、編集すべてやりました。 カメラだけは頼んだのですが…。」
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■現地の言葉が話せたので、 あのおばあちゃんたちと心をかよわせることができたんでしょうね?
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「それは、大きいと思います。そして、そういう言葉を覚えてから入って行くということは、 むこうの研究者の間ではあたりまえの事なんです。 フィジー語の辞書もオーストラリアにはちゃんとありますし。 私は85年に初めてニューギニアに行き、それから88年に至るまでの間に 通算一年半ニューギニアに住みました。そして、彼女たちと寝起きもしました。」
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■そういう状況があったのであのような貴重な証言がえられたのですね。
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「力メラマンのクリス・フォーゲン(英国人)の助力が大きかったですね。 彼はもう十五年も現地に住みついていて、フィジー語はペラペラですし、 エスノグラフィックフィルムを研究しているため、相手がどういう状況だったら一番話しやすいか、 ということもきちっと理解をしていましたし…、 演出のようなことは私たちよりはむしろ現地の人がしてくれたという風でしたし… 私の力というより、そういうみなさんの御陰でできたんです。」
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■あの九州のお医者さんの証言は強烈でしたね。 慰安婦が紙でしきられた畳一畳程の場所で、突撃一番と書かれたコンドームを持った兵隊たちに、 次々に犯されていった…という。よく証言してくれましたね。
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「ええ、私が戦後世代でなにもしらない女だから教えてやろうかという感じで お話し下さったんだろうと思いますよ。 取材していく中で、日本人の看護婦は慰安婦を、日本人の慰安婦は朝鮮の慰安婦を、 そして彼女たちは現地人を差別するという図式があったことを知って、 人間の複雑な差別構造というものの奥深さを痛感しました。」
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■日本の兵隊が土人の女なんて臭いから絶対に寝ないなんて 失礼なこと言うのには、驚きましたね。日本人との子供も出てくるのに…
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「日本の中にいると自分たちが加害者であったということを知らずに過ごしてしまうんですね。 外国にいると好むと好まざるとにかかわらず日本人としてのアイデンティティをつきつけられられます。 日本ではすべてに自由だといわれていますが、 実はその自由はきちっとした形で統制されている中での自由なのだ、 私達はただ自由だと思わされているにすぎないのだと私は思いますね。」
▼情報のインベストゲイト(調査)が大切という、関口さん。 「きちっと」という言葉が好きな、きちっとした発想を持ったすごく素敵な女性でした。 (文責佐藤)
『戦場の女たち』戦場にいたのは、男たちだけではなかったことの記録
岩野素子
パプア・ニューギニア。今ではまるで、何もなかったかのように、遠く思えるその場所に、 その昔(といっても、たかだか40数年前)、日本人は戦争をしに行っていた。
一般に戦場といえば、男たちだけの場所であるかのように語られるが、考えてみれば、 戦争に行った先の土地が男だけの社会であるはずはない。 ただ、みんな見なかったことにしているだけなのだ。
40年経って、同じ場所を今度は同じ日本人の、戦争が終わってから生まれた女性が訪ねる。 これは、その記録だ。
映像は、地図の上の距離や、時間の隔たりを易々と越える。 こことよその境界もなく、過去も現在も同時に存在する。 そうしたところに、こうしたドキュメンタリーの価値はあると思う。
今でも日本軍は英雄と信じきっている、日本の童謡を歌えることを自慢するニューギニアの男性。 現地の女なんて、汚いから誰も相手になんかするはずはないという日本人の男性。
同じ女性の間にも、従軍看護婦は、従軍慰安婦を蔑視し、 慰安婦の中にも民族による差別がある、なんてことは、女性でなければ、 気づきにくかったかも知れない、と小さなショック。 そして、ニューキニアの女の人たちの証言。 淡々と静かに話す人たちをひたすら見つめるカメラ。 それが映像の力というものだ。
一転、日本に立ち戻ってくれば、皇居の周囲を埋める人々の祈りの列。 自分の国で起きていることが、一番理解し難いことになっている監督自身の内部の混乱。
それらがこの映画のはらんでいるもの。
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