女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
10号 (1989)  pp. 19 -- 28

女たちの映画評



『紅いコーリャン』

準備中


『紅いコーリャン』

二月二十四日大喪の日に思う

R. 佐藤

日本中の人がテレビで葬儀を観た日。 「あなたは、この日をどうやってすごしますか? 一諸に自由討論をしませんか」 天皇制を考える市民の会、というチラシが気になって冷たい雨の中、 近くの公園に足を運ぶ。あいにくの雨のためか、集まっているのは10人足らずの人。

スーパーの袋を下げ、勇気を出して近づくと、「佐藤さん」という声。 私はこの巨大団地に越して日が浅い。 知り合いも少ないはずなのに、と驚いて声をかけて下さった人を観ると、 な、なんとシネマジャーナル読者のAさんではないか。 誘い合せたわけじゃないのに。「わたしも何故か気になって…」と彼女は言った。 「亭主はこういうことに無関心なの。寝ているわよ」

終わりそうな時間だったので、早速マイクを持たされる。 「映画の雑誌を作っています。」「天皇制を描いた映画ってどんなのが…」 ええ、たくさんあると思いますが…最近の中国映画に『紅いコーリャン』というのが、 あります。ここでも天皇の軍隊の蛮行が描かれ、恥ずかしい思いをしました。 などと、オタオタ答える。少ないので、是非デモに参加して下さい、と誘われる。 ペラペラのスカートはいてて武装した格好でなく、スゴーく寒かったのだけど Aさんからも誘われ歩いてしまった。そして次の日、風邪を引いた。 でも、Aさんと歩きながらおしゃべりをして楽しかった。Aさんは、 「私も学生の頃、山谷に行っていたのよ」と言った。「ウッソー」と私。 ゴチョゴチョゴチョ、とおしゃべりは続く。

ここまでの話は『紅いコーリャン』と関係ないみたいですけど、 『紅いコーリャン』を観ると、なにか行動を起こさなくてはと思わせられちゃうんです、 ということを私はいいたかったのです。

この監督、「いまの中国人は疲れていて、縮こまってしまっている」 だからこの映画を作ったのだと語る。

女の主人公の毅然とした前むきな生き方。若い男と女にみなぎる性的な躍動感。 酒屋で働く男たちの力強さ。コーリャン畑がつらなる広大な大地で営まれてきた、 おおらかなこれらの生。それをふみにじったものへの怒りが、ヒシと伝わってくる。

監督は一見ひよわそうにみえるのに、(『古井戸』の主人公) この映画全休の持つ雰囲気は、異様にたくましい。 そのアンバランスさに私は驚いてしまった。

このコーリャン畑に住む人々に溢れている情熱。 こんな躍動感や情熱が現代の中国人には必要なのだと監督はいいたげである。 そしてこういう原始的な、ヴィヴィッドな精神は 今を生きる私たちにとっての憧れでもあるのだ。 だからこそなぜか心魅かれてならないのだろう。

美しい映像は、とてもおしゃれです。



『レインマン』

準備中


『イントレランス』と日本文化事情

準備中


『悪霊』

映像の引力をもつ映画

岩野 素子

最初は少し気が重かった。『悪霊』の試写会があるが、 他に誰も行かれないので私が行くということになったが、 ドストエフスキーといえぱ、読んでも途中で挫折してばかりだし、 アンジェイ・ワイダの方も『灰とダイアモンド』は、 主演のチブルスキーと映像のかっこよさが好きだったというだけで、 政治的な部分は全く理解できていないし、まして、その後のより、 政治色の強そうな作品は、最初から観ようともしてなかったような私が、 仕方なく観に行くなんて、映画に対して失礼じゃないかと思った。

映画が始まった。画面は冬の重たい雲の灰色に覆われている。 道端の街灯だけが、唯一画面に紅の色を添えている。道は、 いつも画面の手前から奥に向かって伸びていて、そこを人は寒いからか、 ものすごい早足で歩き過ぎる。じっとしてたら凍えてしまいそうだ。 そんな人の行き来を見ているうちに、その暴力的な程のスピードのリズムに捕えられて、 いつか画面に見入っていた。

集団を動かすにはカリスマが必要だ。指導者ピョートルはスタヴローギンに言う。 「君の美しさのためなら、人は何でもする」。この美しいスタヴローギンの姿にも、 また見入ってしまう時、ピョートルの言葉の正しさに気づいて、はっとする。

やがてある日、灰色に覆われた画面の中に大きく紅が広がっているのに気づく。 火事が起こり、大混乱のさ中に行われる殺し。 革命のグループを離脱しようとする者への制裁のシーンは、 日本赤軍のリンチ事件を想起させるという人もいる。 死体を氷のはった湖に引きずっていく時の恐ろしい早さ。 初めから気になっていた、あの、早足のスピードの、これがクライマックス。

川に浮かべた小船の中に横たわり、死を迎えようとしている老教授は、聖書の中の、 悪霊が滅びた後に新しい世界が始まる、という話を現在の自分の姿に重ねようとしている。 〈犠牲〉という言葉が思い浮かぶ。そういえば、 川岸に建ち並ぶ家々を焼きつくす炎の色は、 『サクリファイス』の家を燃やす炎の色に似ている気がする。 タルコフスキーは、ロシア人だ。

結局、そうして最後まで、観てしまった。内容に関しては、相変わらず理解不能だが、 それはそれとして、観せてしまえるワイダという人は、 やはりほんとうの映画監督であるということは、理解できた。



『アメリカン・ゴシック』

スプラッター・ホラーを越えたサイコ・ホラー 
そして〈アメリカン〉マイケル・J・ポラード

地畑寧子

宣伝盛んな『レインマン』や『告発の行方』などに押されてか、 『ヘルレイザー2』との二本立てのためかほとんど注目されず、 ロードショーというのにガラガラの映画館で熟睡してるおじさんの横で見ました。 本来ヒッチコックのようなサイコ・ホラーは別として、 スプラッターなどホラーと名のつくものは好きでない私ですが、 ロッド・スタイガーとイボンヌ・デ・カルロそして マイケル・J・ポラードが出ているというので足を運んだわけです。 やはり大量の血が流れるホラーは夢見が悪いわけですが、この作品、 スプラッター的な場面は適当に流して、 サイコの部分に重点がおかれているためか割に見応えはあります。 若者が集団で郊外に出かける設定はよくあるスプラッター・ホラーのシチュエーションですが、 彼らが出会う一家が、〓〓年代で時が止まってしまった孤島の殺人鬼である所が新味。 50歳を越える三兄弟(長男がマイケル・J・ポラード、あと長女、次男) がローティーンで停止したまま生活し、外観より心的なフリークスである点が不気味。 そし父権、母権をふりかざし、スタイガー、カルロ老夫婦が 中年の子供達を世間に絶対接触させんとするところも異常。 訪れた80年代の若者を汚れた野蛮(Gothic)とののしる彼らと、 一家の異常さを野蛮(Gothic)という若者たちとの反目は 30年代と80年代のアメリカ〓〓の隔差を感じさせ楽しめます。 聖書の教えをかたくなに信じるあまり、子供を世間から遮断し、 フリークスにしてしまうスタイガーが演じる父親は かつて強かった父権の絶対を漂わせますがGothic(無教養)ゆえの、 教えを履き違えた人生を送っています。 フリークスである自分達をあざ笑う来訪者を〈遊び〉で残忍に殺す子供(!?)達。 兄(弗)妹(姉)相姦。罰すれぱ全てが解決すると信じて疑わない両親。タイトルの 『Gothic』は単にホラーだと軽く流せない日常生活へのアイロニーが隠されています。

ニューシネマのパイプレイヤーとして登場したマイケル・J・ポラード。 昨年の『アメリカン・ウェイ』で、未来アメリカのパイレーツを怪演していましたが、 〈アメリカン〉を怪演する数少ない魅力あるアクターでしょう。 一人では目立たないけれど誰かと一緒にいるとその人よりも輝いてしまう不思議な人で、 これからが非常に楽しみです。

一部読みとれない部分は〓にしてあります。

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